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内藤 哲也(ないとう てつや、男性、1982年6月22日 - )は、日本のプロレスラー。東京都足立区出身。新日本プロレス所属。
目次 [非表示] 1 来歴 2 人物 3 得意技 3.1 合体技 4 タイトル歴 5 入場テーマ曲 6 外部リンク 来歴 [編集] 小・中学生時代は軟式野球とサッカーに明け暮れる毎日を過ごし、都立高校へ進学。 2000年、高校3年で部活動引退後の9月、アニマル浜口トレーニングジムに入会。10月より同道場に入門を許され、基礎トレーニングとサブミッションレスリングを学ぶ。途中大きな怪我に見舞われ、プロレスラーを諦めようとしたこともあったが不屈の精神で復活。 2004年2月に開催された高田道場サブミッションレスリング大会にて、最優秀選手賞を獲得(ちなみにその大会には同じく道場生で現在プロレスラーの鷹木信悟が本名で出場していた)。 2005年11月3日、後楽園ホール大会にて行われた新日本プロレス公開入門テストでは、群を抜くスピードと正確さでメニューをこなして行き、たった1人の合格者となった。同年12月1日に入門。2006年5月27日、リキプロの宇和野貴史を相手にデビュー。 そして9月のシリーズで「内藤哲也 試練の5番勝負」として、第1戦:獣神サンダー・ライガー、第2戦:邪道、第3戦:稔、第4戦:外道、第5戦:金本浩二とのシングルマッチが組まれた。いずれも敗北に終わったが、どの試合も高評価であった。 そして、2006年10月29日に行われた神戸大会の第一試合で、先輩の平澤光秀に勝利。これがプロレス入門後の初勝利となった。その試合がテレビ朝日「ワールドプロレスリング」の「2006ヤングライオンベストバウト」に選ばれ、2007年1月4日の東京ドーム大会内で平澤とともに表彰された。 2007年6月に開催されたベスト・オブ・ザ・スーパージュニアXIVに出場。本来は出場選手から外れていたが、前シリーズの広島大会で邪道が負傷し、繰上げ出場。Bブロック第一戦(後楽園大会)では、「白星配給係」と馬鹿にされていた外道から大金星。予選最終戦(徳島大会)ではエル・サムライからも大金星をあげ、初出場ながらベテラン勢から2勝を挙げた。 2008年3月、裕次郎とタッグチーム「NO LIMIT」」を結成。同年4月には初めてタイトル(IWGPジュニアタッグ王座)に挑戦するも、敗れる。同年8月にはプロレスリング・ノアの金丸義信、鈴木鼓太郎組の持つGHCジュニアヘビー級タッグ王座に挑戦したが敗北。 同年10月の新日本両国大会で稔・プリンス・デヴィット組からタイトル奪取。第22代IWGPジュニアタッグ王者になる。しかし、翌年の東京ドーム大会でTNAのアレックス・シェリー、クリス・セイビンのモーターシティ・マシンガンズに負け、タイトル流出。その後、新日本両国大会での挑戦権を賭けた4wayタッグマッチで勝利し、裕次郎と共に渡米。TNAに参戦し、タイトル奪還のため奮闘し、一時は彼らに勝利した日もあったが、2009年3月30日TNAオーランド大会でのタイトルマッチで再戦するも、勝利ならず。 5月からメキシコへと遠征し29日に裕次郎、ドス・カラス・ジュニアと組みCMLLに初登場。以降継続参戦し人気を博したが、12月4日に行われた髪切りマッチに敗れ、髪を刈られ丸坊主の姿へとなってしまった。また、階級をジュニアヘビー級からヘビー級へと転向。 2010年1月4日、裕次郎と共に新日本へ一時帰国しブラザー・レイ、ブラザー・ディーボンの持つIWGPタッグ王座で凱旋試合を行う(この試合は3wayマッチとして行われもう1組の挑戦者はジャイアント・バーナード、カール・アンダーソン組だった)。この試合に勝利し第55代IWGPタッグ王者となった。 2月14日にはCMLLのテリブレ、テハノJr.組相手に防衛を成功。さらに3月に行われたNEW JAPAN CUPに初出場。1回戦でカール・アンダーソン、2回戦では棚橋弘至に勝利を上げ、ベスト4に残った。 人物 [編集] 新日本プロレス野球部ではショート・2番打者として、守備と俊足でチームに一役買っている。 本人は、熱心な新日ファンであり「闘魂戦士」時代からのファンクラブ会員でもある。選手になった今も「一選手である前に一ファンでありたい」という気持ちでファンクラブに入会しているという、異色の選手。その熱い気持ちに新日社員も笑ってしまったというほどであり、噂によれば、現在は新ファンクラブ名簿の一番上に名前があるという。 広島東洋カープの熱狂的なファンであり、ファンクラブに入会している他、シリーズの合間をぬって球場での観戦にも行っている。広島市民球場の取り壊しに伴う公式戦最終試合開催日にもわざわざ観戦しにいく熱狂ぶり。 3度の飯より寝るのが好きで、日本各地の興行で移動の際はほとんど爆睡。渡米してもその生活スタイルは変わらず、ついには控え室でも寝ていることからついたあだ名が「GOOD NAITO(good nightをかけたもの)」。 忘れ物が多く、数々のエピソードを裕次郎他いろんな選手に暴露されている。 元々武藤敬司の大ファンで、同じく武藤から影響を受けている棚橋がトレーナーであるとメディアに紹介されたこともあり、オレンジタイツ時代の武藤のリングコスチュームやファイトスタイルにその影響が見て取れると言われているが、実際は棚橋がトレーナーというのはメディアの作った話で、取材の際の1回のみ。また、武藤が新日を去ったことから「大好きだったけど、今は大嫌いな選手」という位置づけ。あくまで内藤は「新日愛」にこだわる。 本当はものすごい人見知りで、中々打ち解けられない。リングに上がると性格が一変する。 最近はなぜかTシャツを着たまま試合をすることが多い。 得意技 [編集] スターダストプレス 獣神サンダー・ライガーが開発し、その後ライガーを含め使い手がいなかった幻の空中殺法。体を左方向180度捻った後、270度前方回転し更に180度左方向に錐揉み回転させる。初公開時には技の凄さに会場は静まり返る程で、ヘビー級に転向してからも愛用している。 スターダストアタック 場外の相手に対して、コーナー最上段から放つスターダストプレス。 ジャンピング・エルボーアタック 相手の近くまで行って当てるのではなく、ロープのリバウンド時にジャンプして相手に体ごとぶつけていく。時にリング中央近くまで飛んで行く跳躍力を見せており、ショーン・マイケルズのフライング・フォーアームに近いフォームが特徴。 ジャーマン・スープレックス・ホールド 高角度から放ち、ブリッジの美しさには定評がある。 ドラゴン・スープレックス・ホールド 上記のジャーマン・スープレックス同様、高角度式を使用する。 変形膝固め 仰向けになった相手の左膝を捻り、身体ごと反転させて膝の神経を食い込ませる。足関節への技は多く存在するが、その中でもこの技は膝に大きなダメージを与えるため、一度捕まるとなかなか抜け出すのが困難である。 ニーロック 自分の腕と足を使うが、相手の肘ではなく、膝にダメージを与える関節技。 リバース・インディアン・デスロック うつ伏せの相手の両足を交差させ、自分の片足を掛けた状態から後方に倒れ込み、両足にダメージを与える技。 ジャパニーズ・レッグロール・クラッチ・ホールド ミサイルキック ポストは跨がず片側に両足が乗る武藤敬司スタイル。 三角飛びミサイルキック 素早いムーブで飛ぶため、避けづらい。 ジャックナイフ式エビ固め 裕次郎がラりアットで相手を倒してから、素早く仕掛けることが多い。この連携が決まれば、かなりの確率で勝負がつく。 急所攻撃 内藤には相手を宙に放り投げてから急所を蹴り上げるパターンが存在する。 合体技 [編集] リミットレス・エボリューション 裕次郎との合体技。相手の体をリフトアップさせ、そのまま相手の両足を下へ引っ張りながら2人は背中からマットに倒れこみ、落下させた相手の背中を叩きつける。 リミットレス・ドリーム 裕次郎との合体技。内藤がブレーンバスターの要領で裕次郎の肩に乗せ、そのまま首を抱えた内藤がネックブリーカー・ドロップ、裕次郎がパワーボムのような格好で後頭部をマットに叩きつける。 リミットレス・エクスプロージョン 裕次郎との合体技。内藤がリバース・パワーボムの形で相手を持ち上げるのを見計らって裕次郎がロープへ走り、相手の首に飛びついてスタナーを叩き込む。この技で長年海外に流出していたIWGPタッグ王座を取り戻すことに成功した。 タイトル歴 [編集] 新日本プロレス IWGPジュニアタッグ王座(第22代、パートナーは裕次郎) IWGPタッグ王座(第55代、パートナーは同上) 入場テーマ曲 [編集] Du Hast / Rammstein Nolimit 裕次郎(現:高橋裕二郎)とのタッグチーム“NO LIMIT”結成時のテーマ曲。現在は勝利テーマ曲として使用。 Jumping High PR |
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山 広吉(てんざん ひろよし、男性、1971年3月23日 - )は、日本のプロレスラー。京都府京都市出身。新日本プロレス所属。血液型O型。本名および旧リングネームは山本 広吉(やまもと ひろよし)。
目次 [非表示] 1 来歴 2 得意技 2.1 必殺技(フィニッシュ・ムーブ) 2.2 打撃技 2.3 組み技 2.4 関節技 2.5 その他 2.6 合体技 3 タイトル歴 4 その他 4.1 パチンコ 5 脚注 6 関連項目 7 外部リンク 来歴 [編集] 京都市立北野中学校、京都府立山城高等学校卒業、学生時代にボディビルとバスケットボールに打ち込み、新日本プロレス学校を経て1990年5月に新日本プロレスに入門。1991年1月11日に今治市公会堂にて松田納(現・エル・サムライ)戦でデビュー。 1993年3月の第4回ヤングライオン杯に優勝し、欧州武者修行へ出発。カルガリーの大剛鉄之助の元で肉体改造を果たし、1995年に凱旋帰国。凱旋直後に長州力からピンフォールを奪い、トップレスラーの仲間入りを果たすと同時に蝶野正洋、ヒロ斎藤と狼群団を結成。1997年にnWoジャパン軍に入った。 小島聡とのタッグは「天コジ」と呼ばれ、当時の日本人タッグでは日本1、2を争えるほどで、IWGPタッグ王座獲得やG1タッグリーグ戦優勝という輝かしい実績を残したが、2002年1月、小島の全日本プロレス移籍によりタッグを解消した。 2003年、これまで何度も優勝候補とさわがれながら優勝ができなかった天山は、一念発起して再びカルガリーの大剛の元で肉体改造を行い、帰国後コスチュームを変更し髪の色も黒髪に戻した(すぐに金髪に戻る)。そしてG1 CLIMAXに挑み、初戦こそ秋山準(プロレスリング・ノア)に敗れるも決勝で雪辱し優勝。 その後IWGPヘビー級タイトル奪取と、これまでタッグ中心だったがシングルプレーヤーとしての確固たる地位を築いた。さらに2004年のG1 CLIMAXでは当時成長著しかった新三銃士の中邑真輔、柴田勝頼、棚橋弘至を決勝トーナメントで順に3タテして連覇を成し遂げた。 2005年2月20日、調印式で「負けたら引退する」との決意で臨んだ小島聡との三冠・IWGP、2つの王座を賭けたタイトルマッチを行うが、59分45秒脱水症状によるKO負けを喫し、負けた直後に引退撤回というファンと小島を激怒させた結末を迎えた(以後、“脱水牛”と揶揄される)。 同年3月26日、次期IWGP挑戦者決定トーナメントで優勝するものの、中邑真輔と引き分けによりベルトを死守した王者小島が激怒、挑戦者失格の烙印を押される。しかし同年5月に小島からIWGPを奪取する。翌6月にイタリアで行われたスコット・ノートンとのIWGPシングルの防衛戦では、ノートンのパワーに苦しめられるも防衛に成功するが、その後藤田和之に王座を奪われた。 2006年はG1 CLIMAXを初日から全勝を続け、決勝で小島聡を破り3度目の優勝を果たした。そして、全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦に天コジで初挑戦する。序盤は武藤敬司、川田利明組に敗れるが決勝進出決定戦でリベンジし、そして優勝を果たした。 長らく「蝶野の子分」「No.2」と揶揄されてきたが、その状況を打破するために、2006年10月、真壁刀義、越中詩郎らと共に、新たなヒール軍団G・B・H(グレート・バッシュ・ヒール)を立ち上げる。ただし、前述の世界最強タッグリーグにおいてはヒールキャラを封印している。 他に適任者のいない場合、シングル王座戦線に出て獲得し、次の王者に良い試合を経て渡す役目を負うことが多い。そのため「リリーフ王者」と揶揄されることもある。しかし、角海老宝石ジムでのボクシング練習、2006年契約更改時の「嫁が怖い」と硬軟織り交ぜたアングルを展開する幅の広さを持ち、さらに今のヘビー級では数少ない受けの名手であり、危険な技も数多く受けている。 2007年はG・B・Hのリーダーとして軍団を引っ張っていたが5月から6月にかけ再三にわたり休場勧告。さらに昨年12月に負傷した首の状態が最悪であることも発覚した。このせいがあり、8月のG1 CLIMAXでは昨年の優勝者とは思えない不本意な成績に終わり、なおかつ越中のG・B・H脱退により本人も「もうアカン、気力だけで通用せぇへん」と休場とも思われる発言をしている。そして10月8日、かつての付き人後藤洋央紀と下克上マッチに敗北。この試合で、後藤が放った変形バックブリーカー(後の牛殺し)によってとうとう頸椎を損傷し長期欠場に追い込まれた。 2008年2月17日、両国国技館で復帰するもタッグパートナーの石井智宏が天山の誤爆により敗北し試合後にG・B・Hを追放された。蝶野正洋がすぐさまレジェンド軍へ勧誘したが、張り手で拒否した。 3月9日、NEW JAPAN CUP1回戦でG・B・Hの石井智宏と対戦。流血させられたが勝利。試合後、G・B・Hが天山をメッタ打ちにしているときに飯塚高史が救出。最初は、飯塚に冷たくあたっていたが、後に分かり合い合体。後に友情タッグと命名。4月27日、同タッグで真壁刀義、矢野通が持つIWGPタッグに挑戦。試合終盤に飯塚からのまさかの裏切りにあい、敗戦。試合後飯塚は天山をイスでメッタ打ち。そしてG・B・Hに加入した。 7月8日、裏切りの飯塚とランバージャック・デスマッチで対決。場外でG・B・Hメンバーからの攻撃で流血、後半はレフェリーを不在にさせ無法地帯と化すも最後は天山がアナコンダバイスで勝利。試合後納得のいかないG・B・Hが天山を奇襲。その時、盟友である小島聡が救出し、天コジ復活を遂げた。 G1 CLIMAXでは、初戦の川田利明をアナコンダバスターで勝利を奪ったが、G・B・Hの襲撃にあい、担架で運ばれる(2戦目の矢野通戦でも担架で運ばれた)。その後何度も襲撃にあい首が悪化。結果、1勝5敗と不本意な戦績で終わった。 10月13日、飯塚高史と2度目のデスマッチ、チェーン・デスマッチで激突。セコンドの介入も小島が阻止したが、飯塚にチェーンで首を絞め上げるとレフェリーが危険とみなしTKO負けを喫した。後日行われたG1 TAG LEAGUEでは小島と組み天コジとして挑む。初戦こそ飯塚高史、石井智宏組相手に黒星を飾るものの、その後は無傷の連勝を重ね見事Aブロック1位通過。決勝戦で真壁刀義、矢野通組と対戦。小島の大流血、飯塚の乱入などで窮地に追い込まれたが、最後はアナコンダクロスを解禁。これで矢野をギブアップさせ、7年ぶり2度目の優勝を果たした。 さらに全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦では諏訪魔・近藤修司組を破り、2年ぶりの優勝を遂げ、初のメジャー大会ダブル優勝を飾り、2009年1月4日に行われるIWGPタッグ王座に挑戦を決意。ところが12月29日に右目の上半分が見えなくなるという異常を訴え、病院で検査を受けたところ網膜剥離と診断された。12月31日に手術が行われ、休場を余儀なくされた。 2009年5月3日に小島とのタッグ「天コジ」で復帰。復帰戦でいきなりジャイアント・バーナード・カール・アンダーソン組とIWGPタッグ次期挑戦者決定戦で戦うも敗北。試合後、天コジの解散を宣言。その後、飯塚からの度重なる暴徒により7月21日、3度目のチェーン・デスマッチを行い、リベンジを果たした。 8月、脊椎管狭窄症と右肩亜脱臼により無期限の欠場を発表。その後千葉県の病院に入院して9月24日に首の痛みの原因である頸椎後縦靭帯骨化症の手術を受け[1]、10月2日に退院しリハビリを開始したが[2]、その後都内の病院での検査の結果、新たに右肩の腱板断裂が判明した[3]。このため右肩も改めて手術することになり長期休養に入った。 2010年11月18日に若手中心の興行NEVER.4でアントーニオ本多を相手にアナコンダバイスで復帰戦を勝利で飾った。試合後、記者会見で感極まって号泣した。 得意技 [編集] 必殺技(フィニッシュ・ムーブ) [編集] TTD(テンザン・ツームストーン・ドライバー) 変形のツームストーン・パイルドライバーで天山の代表的なフィニッシュ・ホールドの一つ。綺麗に決まると相手は首から垂直に落ちるが、ボディスラムの様に相手が背中から先に落ちている場合もあり、決め方や角度にかなりの差異が見られる。欧州式パイルドライバーと同型だが、両膝で相手の頭を固定することはしない。また、ボディスラムの要領で相手を抱え上げそのまま開脚ジャンプした自らの股に相手の頭を落とすオリジナルTTDを使用した時期もあったが、怪我人が絶えなかったため、稀にしか使われない技になっている。因みに原型では、ボディスラムの要領では無く、ツームストーン・パイルドライバーの要領で相手を抱えてそのまま2、3歩後ろに下がり、尻餅をつくようにして落とす技。こちらも怪我人が続出したため現在では完全に封印している。余談だがPS用ソフト闘魂烈伝3及び闘魂烈伝4では特定の条件下においてこの型のTTDが繰り出せる。 アナコンダバイス 2003年にカルガリー遠征中、大剛鉄之助の元で身につけた変型の腕極め式袈裟固め。この技への布石として使用されるのが、ロックボトムの形で組み付き、前にジャンプして尻餅をついて着地するアナコンダスラム。アナコンバイスをこらえ立ち上がろうとする相手を強引にテイクダウンを取る投げをアナコンダバスターという名称で知られている。また、相手の左腕を相手の首の前に巻き付けるように固定した、変形アナコンダバイスをアナコンダクロスと称されている。 ムーンサルトプレス 天山プレスともいわれる。海外修行時に取得し、ダイビング・ヘッドバットとともに長くフィニッシュ・ホールドとして使用している。 2002年9月6日の石川県産業展示館3号館大会の西村修戦で敢行した際には回転に失敗して頭から落下し意識不明となったが、1週間足らずで復帰し、再び試合で同技を繰り出し、天山のタフさを印象づけるエピソードとなった。左腕の感覚には違和感があり、戻るのにはかなりの時間がかかった。近年では首に負担がかかるため、ごく稀にしか使わなくなった。 ダイビング・ヘッドバット 2000年以前にフィニッシュ・ホールドとして多用していた。現在では大舞台での繋ぎ技として使っている。ただ、相手に届かずに自爆といった経験も何度かしている。トップロープ上で十字首切り動作を行い右腕を振り上げたまま飛んで行く天山独自のフォームである。 打撃技 [編集] モンゴリアンチョップ 独特の呼吸で放ち、使う際会場のあちこちから「シュー」の唱和が飛び交うのがお馴染みとなっている。初期は両手を大きく振り上げ相手の両肩に打ち降ろした後に自らの両腕を一回転させる独特のモーションが印象的であったが後に改良、自身の胸の前で両腕を一旦交差させてバッテンを描くように斜めに振りおろすようになった。現在では肩の故障のためか初期のような打ち方に戻り、さらに自らの両腕を一回転させるアクションは見られなくなった。呼吸とモーションのみ見せ、チョップではなく相手胴部へ頭突きを見舞うフェイント技なども稀に見せる。 天山チョップ 仰向けに倒れた相手の頭側で見得を切り相手の喉元に手刀を振り下ろす技。こちらも打ち降ろした後に自らの腕を一回転させる独特のモーションが印象的であった。 アナコンダフック 後頭部にパンチを繰り出す技。勿論反則である。 フライングニールキック 主にロープへ振った相手に対して放つ、カウンター式を使う。 組み技 [編集] マウンテン・ボム 主にロープから戻ってきた相手に対しカウンターで用いられ、相手を担ぎ上げ、そのまま自身の上半身を預けた状態で後方へ倒れ込み投げる技。しかし近年では、倒れる際に相手を自分より更に後方へ投げ落とす(=自身の体重が相手へ乗っていない)、通常のバックフリップと大差のない投げ方へとなってきている。雪崩式も存在する。 ジャーマン・スープレックス ここ一番の切り札として、大一番で繰り出す。 大剛式バックドロップ(アナコンダスープレックス) 相手の片足をクラッチして急角度に落としていく変形のバックドロップ。 シュミット式バックブリーカー ムーンサルトの繋ぎ技として使用していたが、ボディスラムやTTDをムーンサルトの繋ぎ技として使用することが増えたため使われなくなった。 関節技 [編集] バッファロースリーパー 相手の片腕を取ってのスリーパーホールド。考案者は天山の妻。結婚する前、喧嘩で天山が妻にスリーパーホールドをかけられた際、髪をつかもうと手を差し出したとき、その腕ごと奥さんに固められてしまったのがきっかけ。 猛牛足卍 変形の足4の字固め。 その他 [編集] カーフブランディング コーナーにもたれ掛かっている状態の相手に対し、自分はコーナーに上り、膝を相手の頭に押し付けたままマットに叩き付ける。 合体技 [編集] 蝶野正洋 CTC (Chono Tenzan Crush) 蝶野のシャイニングケンカキックと天山のラリアットで相手を挟み撃ちにする技。 蝶天魚雷 2人で行うダイビングショルダータックル。 小島聡 天コジカッター 天山がフラップジャックで相手の体を抱え、小島が相手の首を捕らえダイヤモンド・カッターでマットへ叩きつける。 TCD (TEN COZY DRIVER) TTDとCCDの危険な複合技。 オレごとアナコンダ 立っている相手をアナコンダバイスの要領で捕獲してから、そこへ小島がラリアットで天山の腕ごと相手をなぎ倒す。 アナコンダカッター 天山が上記の通りに相手を捕らえ、小島がダイヤモンド・カッターの形で相手の顔、胸をマットに打ち付ける。 中邑真輔 天中殺 天山が水車落としの要領で抱え上げ、中邑がコーナーからDDTの形でマットへ突き刺す。 タイトル歴 [編集] 新日本プロレス IWGPヘビー級王座 : 4回(第33・35・40・42代) 4回も取得しているが1回目、3回目は初防衛戦で敗れており、2回目、4回目も1回しか防衛できず、非常に短命政権なことで知られている。 IWGPタッグ王座 : 8回(第25、28、34、36、40、43、45、48代) 最多戴冠数の記録を持っている。パートナーは蝶野3回→小島2回→蝶野→西村→蝶野という変遷を遂げており、特に蝶野や小島とは名タッグとして知られている。 G1 CLIMAX優勝 : 3回(2003年・2004年・2006年) G1 TAG LEAGUE優勝 : 3回(1995年・2001年・2008年) 全日本プロレス 世界最強タッグ決定リーグ戦優勝 : 2回(2006年・2008年) パートナーは小島聡。 CWA CWA世界ジュニアヘビー プロレス大賞 1995年度プロレス大賞 最優秀タッグ賞 1996年度プロレス大賞 最優秀タッグ賞 2000年度プロレス大賞 最優秀タッグ賞 2004年度プロレス大賞 敢闘賞 その他 [編集] 練習生から新日に正式入門した頃、あまりの練習の厳しさに耐えられなくなって(橋本真也の破天荒ぶりに耐えられなかったとも言われる)、脱走し京都の実家に一旦帰ったことがある。その時、練習生時代に一緒だった金原弘光から「俺たちは体が小さいから新日に入れないのにお前は入れたんだから頑張れよ。連絡すればまだ戻れるよ」と慰留の電話がかかり、また元ボクサーの父親に「自分で選んだことで、ケツ割るとは何事や」と怒られ、新日道場に帰ってきたことがある。 新人の頃、橋本真也に(食器の)レンゲ持ってきてくれと言われたが、彼は蓮華草をたくさん取ってきて、橋本を呆れさせた。 ボクシング特訓よりも昔に、ITFテコンドーのジムで特訓するというアングルがあったが、すぐ無かったことになった。 テレビ朝日のドラマ、『逮捕しちゃうぞ』にチンピラ役として出演したことがある。 元祖!でぶや(テレビ東京系)に以前よく出演していた。 おでこにつまようじが刺さるという持ち芸がある。元は橋本真也のいたずらがきっかけであり、一時はこの芸をやらされすぎて死にそうになったことも。 小川直也・橋本真也のタッグ(当時OH砲と呼ばれていた)を「チキンとポークだよ」「CP砲」と揶揄した第一人者である。また西村修を「モヤシ」と呼んでいた。 師匠・蝶野正洋の教育の成果からか、非常に好青年である。また天山自身も、幼少期は病弱で入退院を繰り返していた経験が元で、高齢者等の施設に慰問をしている。 根っからのプロレスファンで、16歳頃からプロレス中継によく観客として映っていた。実家が京都なのに東京での興行も見に来るほどであった。 以前は、たどたどしい標準語で喋っていたが、結婚してからは地元の関西弁で喋るようになった。最近は、自分のことを「ワシ」と呼ぶことも多くなった。 京都から親戚が東京に来た際、京都に帰る親戚を自身も一緒に新幹線に乗って京都駅まで送っていったことがある。 美人の妹がおり、一時期馳浩が狙っていたと言われる。 佐々木健介の嫁・北斗晶が鬼嫁と呼ばれることに対して「同じ恐妻家でも、こっちの方が上なんや!」と自身の恐妻家ぶりをアピール。なお、夫人をちゃん付けで呼んでいるにもかかわらず、彼自身は呼び捨てで呼ばれている。また、新日本プロレスウェブサイト上の公式選手名鑑で、苦手なものに「機嫌の悪い時の嫁さん」と掲載したり、2006年G1 CLIMAXでは「嫁さんの前で、ヘンな所を見せたくなかった」と発言したり、小島聡との3冠、IWGP、それぞれのベルトを賭けたタイトルマッチに59分45秒脱水症状によるKO負けの後、「意識を取り戻したら、嫁さんにこっぴどく説教された」、2008年10月に路線バスと原付で接触事故を起こした際の記者会見でも「帰る時間が遅れ、嫁さんに叱られた」と発言するなど、自他共に認める恐妻家。ただ、夫人が一般人のために佐々木健介や蝶野正洋のように、恐妻家を表立ってウリにはしていない。 ノーザンライトボムの生みの親が北斗晶夫人のように、バッファロースリーパーの生みの親は理絵夫人である。 デビュー当時は必殺技がないことに悩んだという。唯一の必殺技は「しゃちほこ固め」という深めの「逆エビ固め」だったが、この技は体の柔らかい西村修にしか決まらないという最大の弱点があった。 上記の反動からか新技、オリジナル技の開発に余念が無く結果次々と新たな必殺技を生みだしたため、今度は逆に「お前はもう少し技を大事に使え」と先輩に怒られたことがある。 天野ひろゆきがブラックビスケッツの際に天山(あまざん)というギミックで、天山と同じ型の角型マスクをした。 ムーンサルトプレスを放った際、回転仕切れず脳天からマットに落下するも、数日後には復帰するタフネスぶりを見せた。復帰後、記者から失敗についてのインタビューには質問内容に関係なくガナリ立てることで、うやむやにするという器用な面を見せた。また、1995年頃、武藤敬司と「敗者ムーンサルトプレス封印マッチ」で敗北するも、「天山プレス」と称してほとぼりが冷めた頃にまた使い始めた。 曙に対して、「プロレスも総合格闘技も中途半端」と批判した。 2008年10月8日、原付バイクを運転中に右折してきた東急バスの路線バスと衝突するという事故を起こす。直後の検査では右肩の打撲と擦過傷という軽傷と診断され、翌日IWGPタッグ調印式前に謝罪会見を行ったが、1年以上経過した2009年10月に改めて検査した結果右肩の腱板が断裂していたことが判明した(ただし事故との因果関係は不明である)。 2010年11月18日に長期休養から復帰した天山であるが、怪我の程度はかなり深刻であったと語り、奥さんからは他の仕事を探すように助言されたり、自殺も考えたほどであった。 パチンコ [編集] 天山はパチンコ好きでも有名で、その面でのメディア露出も多い。 原作を連載していたパチンコマンガが単行本になっている。 スポーツ報知でもパチンコのコラム『天山の激録!!玉取ったる』を月1回で連載している(ただし、怪我の治療のため、2009年10月から2010年3月にかけては4代目タイガーマスクが代わりに担当していた)。 テレビでも『銀玉王 リーチボーイズが行く!』(テレビ神奈川・テレビ埼玉・千葉テレビ)に準レギュラー出演していたほか、ゲストとしてパチンコ・パチスロ番組へ出演することも多い。 最近では新日本プロレスのマットにパチンコメーカーの広告が出されているため、自分の試合中にそれが目に入り思わずパチンコのことを考えてしまうほどだという(『銀玉王』出演時の発言より)。 2010年に発売されたパチンコ機『CR江戸の始末屋〜最強新日烈伝』(平和)では、蝶野・棚橋・中西学と共に「始末屋」の一人として液晶演出に登場している。 |
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田口 隆祐(たぐち りゅうすけ、男性、1979年4月15日 - )は、日本のプロレスラーである。新日本プロレス所属。宮城県岩沼市出身。宮城県仙台第一高等学校卒業。
目次 [非表示] 1 経歴 2 得意技 3 連携技 4 タイトル歴 5 入場テーマ曲 6 外部リンク 経歴 [編集] 宮城県仙台第一高等学校サッカー部、東海大学レスリング部出身。2002年3月に新日本プロレスのスカウト部長になる前の木村健悟にスカウトされて新日本プロレスに入団し、同年11月22日後楽園ホール興行での対矢野通戦でプロレスデビュー。その後前座戦線で活躍しかなり早い段階で頭角を現した。またドロップキックの空中姿勢、華麗さに定評がありドロップキック・マスターというニックネームがついた。 ジュニアヘビー級戦線で活動し、2003年にはベスト・オブ・ザ・スーパージュニアに出場。2004年にはヤングライオン杯、ヤングライオン闘魂トーナメントで優勝を飾り、新日本のヤングライオン(若手レスラー)の中ではトッププレイヤーになった。2005年には2月から10月までメキシコのCMLLへ海外遠征に出発。同団体で元全日本プロレスの奥村茂雄とツナミ・デル・オリエンテを結成。 2005年10月に帰国し、緑のオーバーマスクをかぶり新日本に凱旋帰国。2006年2月19日両国でエル・サムライとタッグを組み稔&後藤洋央紀組を破り、第16代IWGPジュニアタッグ王座を獲得。 長期メキシコ遠征帰国後から、勝利後リング上でファンキーな踊り(通称:タグダンス)を見せるようになった。日本初公開のタグダンスは、2006年1月28日後楽園ホールにて、ファンキー仕様の髪型を初披露した田口が4代目タイガーマスクと組み、後藤洋央紀、稔組と戦った試合で田口が後藤を必殺のどどんで破った後に多少中途半端ながら披露された(その直後に小バカにした態度で稔に真似されていた)。 2007年3月にはサムライジムに入門。エル・サムライにテクニックを伝授し4月には稔の持つIWGPジュニアヘビー級王座に挑戦。6月のベスト・オブ・ザ・スーパージュニアにはBブロック1位通過を果たしベスト4に進出。7月6日の後楽園ホールにて、稔にリベンジを果たし第52代IWGPジュニアヘビー級王者に輝き、同時に稔に奪われたサムライジムの看板を取り戻した。その後12月9日の井上亘に敗れるまで4度の防衛を果たした。 2009年、プリンス・デヴィットとのタッグチーム“Apollo 55”を結成し7月5日、アレックス・シェリー・クリス・セイビンのモーターシティマシンガンズに勝利し、第24代IWGPジュニアタッグ王座を獲得。21日には、ミラノコレクションA.T.・タイチとのタッグチーム“ユニオーネ”相手に初防衛。9月にはモーターシティマシンガンズと再戦を行い勝利し2度目の防衛に成功した。 11月に行われたG1 TAG LEAGUEではApollo 55でエントリー。スピード溢れる連携を駆使して数々のヘビー級タッグチームと互角に張り合い、Bブロック2位で通過。準決勝では中邑真輔、矢野通組を撃破し決勝進出。決勝でジャイアント・バーナード、カール・アンダーソンと対決するも、あえなく敗戦。しかし、ジュニアながらも準優勝という大健闘を見せ付けた。 12月4日に金本浩二、吉橋伸雄組とタイトルマッチ。これに3度目の防衛に成功。 2010年1月4日にはCMLLの刺客として送られたアベルノ、ウルティモ・ゲレーロ組と対戦。両者派手な技、アピールとスピード駆使して最後はブラックホールバケーションで勝利。4度目の防衛に成功。 2月14日に5度目の防衛戦として邪道、外道が挑戦する予定だったが、邪道が前日の試合で頸椎を負傷するアクシデントのため、外道は急遽ディック東郷を連れて挑戦(当日、入場テーマ曲が鳴るまで誰が登場するのか分からなかった)。最後はブラックホールバケーションで外道を黙らせ5度目の防衛に成功。試合後、Apollo 55のセコンドについていたミラノがリングに上がり外道にトラース・キックを発射させ、共に喜びを分かち合った。 10月11日、新日本両国大会では飯伏幸太&ケニー・オメガの「ゴールデンラヴァーズ」と戦いIWGPジュニアタッグ防衛に失敗するも、プロレス大賞「ベストバウト賞」に選ばれた(プロレス大賞ベストバウトにジュニアヘビー級タッグ戦が選ばれたのは史上初であった)。 得意技 [編集] ドロップキック デビュー以来使い続けている技。エプロンサイドからトップロープに飛び乗って出すスワンダイブ式、コーナーポスト最上段からのミサイル式など、ドロップキックのレパートリーは多い。 カラ・パリダ コブラクラッチで決めるクロスフェイス。大谷晋二郎のキングコブラホールドやアメリカン・ドラゴンのコブラクラッチ・クロスフェイスに似た技。 どどん 現在のフィニッシュ・ホールド。相手の背後に回りタイガー・スープレックスのように相手の腕をリバース・チキンウィングで固め、仰け反る様に上に持ち上げて一旦静止してから相手を前のめりにマットに叩きつける。相手を持ち上げた後はそのまま背後から相手の腰を抱え両足をフックする形になるため、持ち上げられた相手は自然と柔道で言うところの前受身の態勢で落下する。最近は自身より軽量の相手が前方回転エビ固めに切り返そうとしたところをジャーマンで投げたり、相手が粘る時はタイガー・スープレックスに移行する場合もある。名前の由来は田口が通っている「どんぶり どどん」という店名であることを週刊プロレスで明かしている。 スーパーどどん いわゆる、雪崩式どどんだが、中途半端ながら繰り出されることが多く使用頻度は控えめ。 鹿殺し メキシコ無期限遠征後から名前は知られていたがずっと未公開だった技。形はリバースゴリースペシャルボムと同じ。2006年のスーパージュニアでサングレ・アステカ相手に初公開される。 フィッシャーマンズ・スープレックス 4代目タイガーマスクのベルトに挑戦する際、小林邦昭に伝授された技。投げてから後方回転して腕ひしぎ逆十字に移行することもある。 三角跳び式プランチャ コーナー側に向かって走って行き、コーナーに跳び乗って相手に向かって跳んでいくプランチャ。 円盤中毒 180度旋回式のダイビング・ボディ・プレス、2008年3月14日でNJC1回戦(獣神サンダー・ライガー戦)で初公開。屈伸式サザンクロススプラッシュとも言える。 オデレータバスター ポイズン澤田JULIEが使うモアイ・オブ・イースターと同型。 スタラマンチ 田口が使うブレーンバスタースラムの名称。 2010年のベスト・オブ・ザ・スーパージュニアの際に見せたスタラマンチは相手の両足を交差させるように腿で固めて、さらに両腕を相手の首に回して締め上げる。 バカプリャハ フィッシャーマンズ・バスターの体勢に持ち上げてからそのままスパインバスターの様にマットに叩き付ける。斎藤了が使うシュリンプと同型。 スリー・アミーゴ ロコモーション式ブレーンバスター。だいたい3発目で返されることもしばしば。 外道クラッチガエシーノ 外道の外道クラッチを反してフォールを奪う。 連携技 [編集] 人間トーテムポール 中西学との合体技。中西がチョークスラムで相手を抱え上げ、田口がトップロープからネックブリーカー・ドロップを放ち同時に中西が相手の体を投げ捨てる。ZERO1-MAX(現:ZERO1)対抗戦に向けて開発した。 ブラックホールバケーション プリンス・デヴィットとの合体技。田口がどどんの体勢で担いだ相手にデヴィットがプリンスズ・スロウンを放つ。 ムーンランディング プリンス・デヴィットとの合体技。田口がパワーボム、デヴィットのバッククラッカーをミックスした荒技。しかし、たまにしか使わない。 タイトル歴 [編集] 新日本プロレス IWGPジュニアヘビー級王座 : 1回(第52代) IWGPジュニアタッグ王座 : 2回(第16代、第24代) パートナーはエル・サムライ、プリンス・デヴィット。 J SPORTS CROWN 2010 優勝(パートナーはプリンス・デヴィット・後藤洋央紀) K-AWARD 年間最高試合賞(タッグマッチ部門)(2004年) 入場テーマ曲 [編集] MASTER OF DROPKICK / ONE TRACK MIND |
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高橋 裕二郎(たかはし ゆうじろう、男性、1981年1月13日 - )は、日本のプロレスラー。日本体育大学卒業。新潟県新潟市出身。新日本プロレス所属。
目次 [非表示] 1 経歴 2 得意技 2.1 合体技 3 タイトル歴 4 入場テーマ曲 5 その他 6 脚注 7 外部リンク 経歴 [編集] 東京学館新潟高校時代にレスリングを始め、日本体育大学へ進学。グレコローマン84kg級の全日本学生選手権王者となる。卒業後生活するため、飯を食っていくためにとプロレスラーになる道を選び、1年間高校で保健体育の教師をしたのちに2003年末に行なわれた新日本プロレス入団テストに合格した。 半年の練習生期間を経て2004年7月26日、後楽園ホール興行での対山本尚史戦でデビュー。ちなみにデビュー時のコスチュームは近年では異例のアマレスパンツ。黒、赤、青とカラーバリエーションを変えていたが、2005年秋より黒いショートタイツに変更。2007年3月、田口隆祐に次ぐ門下生第2号としてサムライジムに入門した。 2007年5月22日にサムライジムの看板を奪われた稔を倒すべくIWGPジュニアヘビー級王座に初挑戦。6月にはベスト・オブ・ザ・スーパージュニアに初出場。今大会優勝者だったミラノコレクションA.T.を見事下し大金星を上げる。2008年3月に内藤哲也とタッグチーム「NO LIMIT」を結成し、コスチュームもオレンジを基調としたタイツに変更。4月13日に獣神サンダー・ライガー、AKIRA組が持つIWGPジュニアタッグ王座に挑戦。敗れはしたもののレジェンドに恐れぬファイトを見せつけ注目を浴びた。5月にはZeppツアーにてNO LIMIT 5番勝負が組まれたが、全敗。6月には2年連続でベスト・オブ・ザ・スーパージュニアに出場。しかしスタートダッシュでは失敗に終わり開幕4連敗を喫するも、公式戦最終日にて稔をムーンサルトプレスで勝利を飾り約1年越しのリベンジを果たした。 10月13日に稔、プリンス・デヴィット組からIWGPジュニアタッグ王座を奪取。2度目の挑戦にして悲願の初タイトルを獲得した。その後邪道、外道組と対戦し防衛を果たすも翌年2009年1月4日、アレックス・シェリー、クリス・セイビンの世界有数のタッグチーム“モーターシティマシンガンズ”相手に2度目の防衛に失敗。海外流出を許した。 同年2月、両国大会の4wayタッグマッチに勝利し、内藤と共にアメリカに渡米。TNAに参戦し2009年3月31日(現地時間)、TNAオーランド大会でモーターシティ・マシンガンズに再戦も勝利ならず。さらに自分鍛えあげるためにそのままTNAに継続参戦。同年4月19日、シックスサイドスチール3way形式のタイトルマッチに挑戦。しかし、内藤が直前の試合で左膝を負傷するアクシデントが発生し本領発揮ならず。ここでも敗北を喫した。 5月からメキシコに舞台を移す。同月29日に内藤、ドス・カラス・ジュニアと組みCMLLに初登場。以降継続的に参戦し活躍したが、12月4日に行われた髪切りマッチに敗れ、髪を刈られ丸坊主となった。また、階級をジュニアヘビー級からヘビー級へと転向。 2010年1月4日、内藤と共に新日本へ一時帰国しブラザー・レイ、ブラザー・ディーボンの持つIWGPタッグ王座で凱旋試合を行う(この試合は3wayマッチとして行われもう1組の挑戦者はジャイアント・バーナード、カール・アンダーソン組だった)。この試合に勝利し第55代IWGPタッグ王者に輝いた。2月14日にはメキシコで行われた髪切りマッチで敗れ丸坊主にされた怨敵であるテリブレ、テハノJr.組とタイトルマッチ。これにリベンジを果たし、王座初防衛。同年3月5日よりリングネームを本名である「高橋裕二郎」に変更した[1]。 得意技 [編集] ムーンサルトプレス 現在使っている技の中で、最もフィニッシュ・ムーブとなっている。 東京ピンプス 変形のカナディアンハンマー。カナディアン・バックブリーカーの体勢から、相手を前方に大きく旋回させて、開脚ジャンプを加えつつ、うつ伏せに顔面からマットに叩きつける荒技。ヘビー級転身から使い始めており、ここ最近では、フィニッシュ・ムーブとして使うこともある。 ギロチンドロップ ダイビング式は時折、フィニッシュとなっている。 インターカレッジ・スラム オリンピック・スラムと同型。通称インカレ・スラム。はじめてIWGPを取った時にフィニッシュとなった技でもある。 ユウジロウズ・リフト サイド・スープレックスの体勢から相手を持ち上げ、パワーボムの形で落とす。うつぶせに倒れている相手を無理矢理引き起こしてからパワーボムに移行したり、アバランシュ・ホールドに移行したりする。 ラリアット 内藤のジャックナイフ式エビ固めとの連携で使う。 ダイビング・ヘッドバット 若手時代から得意としている。 張り手 永田裕志を一時的にダウンさせるほどの威力を持つ。 スピアー 合体技 [編集] リミットレス・エボリューション 内藤との合体技。相手の体をリフトアップさせ、そのまま相手の両足を下へ引っ張りながら2人は背中からマットに倒れこみ、落下させた相手の背中を叩きつける。 リミットレス・ドリーム 内藤との合体技。内藤がブレーンバスターの要領で裕次郎の肩に乗せ、そのまま首を抱えた内藤がネックブリーカー・ドロップ、裕次郎がパワーボムのような格好で後頭部をマットに叩きつける。 リミットレス・エクスプロージョン 内藤との合体技。内藤がリバース・パワーボムの形で相手を持ち上げるのを見計らって裕次郎がロープへ走り、相手の首に飛びついてスタナーを叩き込む。 タイトル歴 [編集] 新日本プロレス IWGPジュニアタッグ王座(第22代、パートナーは内藤哲也) IWGPタッグ王座(第55代、パートナーは同上) 入場テーマ曲 [編集] Du Hast / Rammstein Huge Gliding その他 [編集] 顎の骨折による入院中、看護婦さんの目を盗んで脱走。ジムでトレーニングに励み、主治医に怒られた。棚橋曰く「退院したら、入院前より体がビルドアップされてた」。 レスリング日本選抜選手権代表・岩崎裕樹は同級生であり友人。 本名は“裕二郎”であるものの、多くの書類で“裕次郎”と誤植され、それなら「石原裕次郎にあやかりましょう」と、“高橋裕次郎”のリングネームでデビュー。3戦目より“裕次郎”に再改名した。 料亭料理長の父親を持ち、道場でその腕を振るう。現在は地元新潟で居酒屋定食たかはしを開業している。 |
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タイチ(男性、1980年3月19日 - )は、日本のプロレスラー。本名は牧 太一郎(まき たいちろう)。北海道石狩市出身。新日本プロレス所属。
目次 [非表示] 1 来歴 1.1 海外遠征 2 得意技 3 タイトル歴 4 入場テーマ曲 5 その他 6 脚注 7 外部リンク 来歴 [編集] 高校時代はレスリング部に所属し、道大会で優勝。全国大会の出場経験もある。 2001年、全日本プロレスが夏に開催した第1回BATTキャンプに参加し合格。 2002年12月2日、全日本プロレスの新潟・長岡市厚生会館大会にて土方隆司戦でデビュー。 全日本プロレスのジュニア戦線主要レスラーとして、2004年2月には大阪プロレス主催の『スーパーJカップ 4TH』に全日本プロレス代表で出場するも1回戦で大阪プロレスの村浜武洋に敗れた。 川田利明の付き人を務めながら試合を行っていた。2005年2月に川田が退団する際には、自分は川田の付き人であるという理由から石狩も全日本を退団し行動を共にしている。以降フリーランスとして活動し、多くの団体に登場している。主戦場の一つであるハッスルでは、不遜かつ非常識な言動で控え室で先輩選手に怒られまくるキャラクターで注目を集め、控え室のスーパースターと呼ばれる。しかし川田が高田モンスター軍に寝返ってしまい、川田の心を取り戻そうと愛憎師弟対決を4度行うも、全て返り討ちにあってしまった。また、女子レスラー風の衣装と化粧を施し「石狩太子(たいこ)」のリングネームを使ったこともある。 ハッスルとは契約を自ら打ち切り離脱。新日本プロレスの単発興行「WRESTLE LAND」に、邪道・外道とトリオを組み、「北海道」のリングネームを名乗った。 7月8日にディファ有明で開催された総合格闘技イベント「MOVE ON! Kings!」で、総合格闘技に初挑戦する予定であったが腰のヘルニア悪化および右肩腱鎖関節損傷のため欠場となった[1]。 その後、フリーとして旧友宮本和志のいるキングスロードへ登場。しかし団体解散後はしばらくZERO-ONE MAXに参戦。 最近は新日本プロレスに参戦し正規軍の一員として戦うことが多くなり2008年にはTNAへミラノコレクションA.T.とともに遠征することが決まった。しかしTNAでは一試合も試合をすることなく予定を早めて帰国をしたことを公式サイトで明らかになった。 帰国後、ミラノの技ロープパラダイスやギミックである透明犬(後に「ミケコ」と命名)を真似するようになり、ミラノとの抗争に発展し、シングルマッチが2度組まれるが、いずれも敗北。同年11月、犬猿の仲といわれたミラノと和解しタッグチームユニオーネを結成。G1 TAG LEAGUEに初出場するも1勝のみにとどまった。 2009年1月には東京ドーム第0試合に初参戦。同年より新日本プロレスの所属となった。4月には「石狩太一」から「タイチ」へと改名し6月のBEST OF THE SUPER Jrでは2年ぶりに出場。初めの4試合は全て敗北しいち早く予選落ちになったが、優勝候補とされていた田口隆祐、他団体出場のYAMATOを破り2勝4敗という結果となった。 6月20日、IWGPジュニアタッグ王座次期挑戦者決定戦を賭け田口隆祐、プリンス・デヴィットの「Apollo 55」と対戦。奮闘を起こし、「タイチ」コールも沸き起こったのだが、最後は田口のどどんで敗北。それから1か月が経った7月20日、Apollo 55が見事王座奪還に成功。再びIWGPジュニアタッグ王座を懸けて激突するがここでも敗れた。 その後、パートナーであるミラノが目の負傷で長期欠場(後に引退)となり、11月下旬からは金本浩二とタッグを組んでいる。 海外遠征 [編集] 2010年1月19日、CMLLへの長期遠征が発表。2月15日に同団体へ参戦するため、メキシコへ出発。同月19日(現地時間)にアレナメヒコ大会のセミファイナルに初登場。内藤哲也、レイ・メンドーサJr.と組んでストロングマン、Mr.ニエブラ、マキシモ組と3本勝負で激突。これにストレート勝ちを収めた。 3月21日のアレナコリセオ大会で対戦相手のラ・マスカラのマスクを剥いだことから因縁が勃発。5月7日に棚橋弘至、OKUMURAと組んで、ラ・マスカラ、イホ・デル・ファンタズマ、エクトール・ガルサ組とCMLL世界トリオ王座を賭けて対決。これに勝利し同王座に載冠。また、自身初のベルト奪取となったが、21日の初防衛戦にて同王座に陥落し短命政権で終わる。 同月23日にマキシモのキス攻撃を受けてしまったことから因縁勃発。6月6日、CMLLのビッグイベントの一つとされているシン・サリダ興行のメインイベントでカベジェラ・コントラ・カベジェラマッチとしてマキシモと対戦。パワーボムで潰されピンフォール負けを味わい丸坊主に。試合後、「今日の恨みは絶対に果たす」と強くリベンジを誓った。 得意技 [編集] ジュニアヘビー級らしい躍動感のある技と、師である川田を受け継ぐかの様なハードヒットな蹴り技を駆使した闘い方を見せる。 ブラック・メフィスト CIMAの得意技であるシュバインのように相手を逆さまにかつぎ、相手の足を交差させてマットに垂直落下気味に落とす。脳天から後頭部にかけてダメージを与える石狩のフィニッシュ・ホールド。シュバインは胴タックルから抱えあげるのに対して、こちらは相手の股に頭を突っ込んで持ち上げる。名前の由来は師匠・川田の海外遠征時代の時のリングネーム。 スイングDDT 試合中盤で放つことが多い技。回転途中に右手でサードロープを掴んで自身の身体を振り上げ落差を増す。 フランケンシュタイナー 相手に側方から飛び付いて旋回しつつ身体を捻って投げ捨てる。コルバタに近い。 ドロップキック 打点が高くフォームも美しい。 トラース・キック ミラノコレクションA.T.との合体技で、左右から挟み打ちにするものは「スーパー・スクラップ・キック」と名付けて使用している。 フロントハイキック 師である川田が得意とするコーナーへの串刺し式も使用。 ステップキック これも師である川田が得意とする蹴り技の一つ。相手の頭を抑えつけ、顔面を小刻みに蹴り上げる。 しょっぱい顔へのケリ スクリューハイキック。 マトリックス 相手をコーナーへスルーし助走をつけながらセカンドロープに足を乗せる。そしてロープを踏み台にして軽くジャンプした後、振り上げた足の甲で相手の側頭部を捕らえる。 マトリックス2 マトリックスの改良版。上記の通りに跳躍しドロップキック気味に相手の胸へ蹴り上げる。 各種キック 上記の蹴り技以外にもローキック、ミドルキック、ハイキックを使い分ける。 鬼葬 飛びつき式に腕と足を決める複合サブミッション。ZERO-ONEの試合に出場した時に日高郁人から伝授された。 スーパージュニア殺し 変型十字固め。 タイトル歴 [編集] CMLL世界トリオ王座(パートナーは棚橋弘至・OKUMURA) 入場テーマ曲 [編集] 「pageant」(Moi dix Mois) 「forbidden」(Moi dix Mois) 「pain〜wing」(Art Cube) 「季節の中で」(松山千春) - デビュー当初に使用 その他 [編集] 自身のブログ「新・石狩生活」でミラノにブログジャックされたことがある。その後、後藤や岡田などにもジャックされた。 趣味は競馬でブログでは度々このことが書き記されてはいるが、つくづく外れてしまっている。 |
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