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高杉 正彦(たかすぎ・まさひこ、本名同じ、1955年6月17日 - )は、日本のプロレスラー。神奈川県平塚市出身。175cm、110kg。
目次 [非表示] 1 経歴 2 得意技 3 こぼれ話 4 出典 経歴 [編集] 日本大学在学時はアメリカンフットボールの選手として活動。卒業後国際プロレスに入門、1977年9月4日 に東京・後楽園ホールでのスネーク奄美戦でデビュー。その後、1981年に国際プロレスが解散後、単身メキシコに渡る。 メキシコ遠征後の1982年、新日本プロレスでタイガーマスクがブームだったこと、ウルトラマンが地方巡業で人気だったことから、全日本プロレスでもテレビ番組のヒーローをモデルにした覆面レスラーを登場させようと高杉自らがジャイアント馬場に売り込んで、覆面レスラーのウルトラセブンとして帰国。日本テレビから全日本プロレスに出向していた松根光雄が円谷プロダクションを説得して正式に許可を得て、ウルトラセブンとして全日マットに登場することになった[1]。 当時ジュニア王者だった大仁田厚の対戦相手として全日本プロレスのリングに上がり、王座に挑戦するが敗退。以後、全日本プロレスを主戦場にジュニア戦線にて活動するが、特に目立った活躍もないまま1986年3月、人員整理の為、剛竜馬・アポロ菅原と共に全日を解雇される。 以降、フリーランスとして全日の前座で様々な謎の覆面レスラーに扮して時折活動していたが、1989年に上記の、剛・菅原と共にパイオニア戦志を旗揚げし、剛に次ぐNO.2として新日本プロレスに出場し、剛と組み長州力&佐々木健介組に勝利するが、地味な勝ち方で評価が低く、自主興行において獣神サンダー・ライガーと対戦するも惨敗。 サンダーライガー戦の際にタイガーマスクの佐山聡がスーパータイガーに名乗っていたことに倣って、高杉もウルトラセブンからスーパーセブンと改名した[1]。 その翌年の1990年にパイオニア戦志が崩壊、再びフリーランスとして活動する中、1992年に剛が旗揚げしたオリエンタルプロレスに参加するが、剛が若手選手達とのトラブルで同団体を退陣した事により、自動的にエース格となるものの、団体は崩壊。1993年にインディー団体の統括組織であるレスリング・ユニオンに加盟し、IWA湘南を旗揚げ。自主興行のみならず、他の加盟団体にも上がるが、レスリング・ユニオンが活動を停止するに伴い、1996年に湘南プロレスと改称し、現在も活動している。湘南プロレス旗揚げと同時にリングネームを本名の高杉正彦から高杉政彦に改名している。 現在は、地元の平塚市でトレーニングジムを経営する傍ら、自主興行の他にも時折インディー団体に出場し、高杉政彦とウルトラセブン(スーパーセブンから元に戻す)のリングネームを使い分けながら小規模ではあるが活動している。 全日本プロレス退団後もウルトラセブンのリングネームを使っていることについては、当時の関係者は既に亡くなっており、プロレスラーとしてテレビに登場もしないから大丈夫ではないかととしている[1]。 得意技 [編集] X固め フライング・クロスチョップ ヒップアタック こぼれ話 [編集] 全日本プロレスに出場していた頃、他のレスラー達とバラエティー番組に出演。その際「正体・国籍不明の謎のマスクマン」と紹介されたが、テレビ収録時のトイレで、共演したビートたけしに「うぅ~ちゃっぷい(寒い)タケちゃ~ん、たいへんだねぇ~」と思い切り日本語で話しかけ、後にギャグのネタにされている。 マスクを脱いだら眉毛が剃られていたことがある。当人曰く「最近低迷しているので、八田イズム(負けたら全ての毛を剃る)を見習って剃ってみた」そうだが、真偽の程は定かではない。 W★INGが1993年2月3日に後楽園ホールで行った興行にて、ジプシー・ジョーの引退試合の相手を務めた際(5分間のエキシビジョン)、ジョーが最後、高杉に得意技であるダイビングニードロップを放ってフォールしたが、カウント2で返して、結局引き分けで試合は終了。このときすでに5分を経過していたのに「ニードロップを見るまでは試合を終わらせられない」と時計を止めた(ゴングを鳴らさなかった)。 リングに上がる際に、ロープを掴んだ手がすべり、後方に転倒するという失敗を2回以上している(一度は、1984年2月23日の全日本プロレス蔵前国技館大会)。当然、観客は失笑。 パイオニア戦志時代、若手のデビュー戦を務めるも体格差で圧倒され、最後に原爆固めで勝利するも「何年レスラーやってんだ、バカ」とファンに罵られた経験がある。 PR |
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