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【2025/05/01 07:56 】 |
高岩竜一
高岩 竜一(たかいわ たつひと、男性、1972年7月5日 - )は、日本のプロレスラー。本名は同じ漢字で「たかいわ りゅういち」。京都府亀岡市出身。ZERO1-MAXを退団しフリーランスとなった。ジュニアヘビー級きってのパワーファイターで「超竜」の異名を持つ。在日コリアンであることを告白している。
目次 [非表示]
1 来歴
2 得意技
3 人物
4 タイトル歴
5 外部リンク
来歴 [編集]

1992年、専門学校在学中に新日本プロレスの入団テストに合格し同年にデビュー。同期入門には現在まで続く盟友・大谷晋二郎がいる。以降ジュニアヘビー級を主戦場とし、主に大谷や金本浩二と組んで獣神サンダー・ライガー、エル・サムライ、ケンドー・カシンらの他、WARやみちのくプロレスの選手らと激戦を繰り広げ、1998年8月8日には初代IWGPジュニアタッグ王座を大谷と共に獲得。1990年代のジュニアの黄金期の一角を担う。ニックネームである「ジュニアの超竜」は、ジュニアヘビーを超えたパワーファイトがスコット・ノートンを彷彿させるため、週刊ゴング編集長の金沢克彦が「竜一」と引っかけて、そう名付けた。
2001年に大谷と共にZERO-ONEに移籍。ヘビー級に転向した大谷とは対照的にジュニア戦線に留まり、対抗戦などでも活躍を遂げている。
2004年4月30日の、ZERO-ONE後楽園ホール興行での天下一Jr.決勝にて、優勝後のインタビューで自分が在日コリアンであることを告白している(試合前には、日本と韓国の国歌が演奏されていた)。そして、在日コリアンであることを誇りに思うと共に、日本で生まれ育ったことから日本人としての誇りも持っていることを観衆にアピールした。この高岩の行動に対して、会場にいた観客は喝采を送った。
2004年10月17日ZERO-ONE札幌大会、星川尚浩戦では金網最上段から雪崩式パワーボムを投げ急性硬膜下血腫を引き起こした。
2006年12月23日、NOAH・ディファ有明大会で杉浦貴を破り、5年ぶりにGHCジュニアヘビー級王座を獲得。2007年2月18日、AWA世界ジュニアヘビー級とのダブルタイトル戦で日高郁人を破り2冠王となった。
2008年12月17日の新宿大会後に退団を表明。ZERO1-MAX側も了承し契約が解除されフリーとなった。
2009年2月15日に新日本プロレスにおいてタイガーマスクを襲撃、4月5日以降参戦しているブラック・タイガーの正体であると言われており、タイガーマスクや観客の反応や声、マスク越しに見える顔などからも明らかに本人と分かる。
また、2009年2月より大日本プロレスのコーチに就任し、9月28日の大日本後楽園大会で半年振りに試合を行った。
得意技 [編集]

スピーディーな動きや華麗な空中技などが注目されるジュニアヘビー級には珍しいパワーファイトを得意としており、垂直落下系や雪崩式系の技を好んで使用する。
高岩ドリラー
ブレーンバスターの状態から相手の体を反転させて落とし開脚パイルドライバーを決める技。スコット・スタイナーが使用するSSDと同系。SEM興行での対杉浦戦では雪崩式でこの技を出し、かなり危険にきめてしまった。
デスバレードライバー
横向きのうつ伏せ状態で肩に担ぎ上げた相手を更に頭上に跳ね上げ、そこから落下する勢いで前方に頭からマットに叩きつける技。主に餅つきパワーボムからの連携で繰り出す。デスバレーボムと投げられる方向が90度変わるため、警戒する相手に一瞬の迷いが出来、より大きなダメージを与える。
デスバレーボム
横向きのうつ伏せ状態で肩に担ぎ上げた相手を真横の方向に頭上からマットに叩きつける。
ラリアット
高岩が長州力の弟子であることを垣間見られる技。長州同様、力任せの印象が強いが無類のパワーがあるためフィニッシュになる場合が多い。佐藤耕平と藤田ミノルの声がつぶれているのは高岩のラリアットによる。
餅つきパワーボム(エンドレス・ボム)
通常のパワーボムから、さらに着地の反動を利用して相手を持ち上げ再びパワーボムを打ち込む技。辻よしなりは実況の際、「エンドレス・ボム」「エンドレス・リバウンド・高岩式パワーボム」など複数の呼び方を使っていた。3発目をライガーボムやデスバレーボムにしたりといったバリエーションも存在。元祖はランス・ストームである。
クロスアームスープレックス・ホールド
ジャーマン・スープレックスの体勢から、相手の両腕を交差させる形でクラッチさせ、受身を取れない状態にして後方に投げる技。新日本時代の先輩、保永昇男が初披露。高岩の場合は雪崩式でかける場合もあり、危険度は非常に高い。ここ一番での隠し技的に使用している。
ジャンピング・ニー・ドロップ
主に中盤で使用。掛け声は「死ねコラァ!!」であることが多い。
垂直落下式みちのくドライバーII
受身の取れない態勢で、脳天から真っ逆様に落とすみちのくドライバーII。これを元にタカイワ・ドリラーやデスバレー・ドライバーを使用するようになった。現在ではあまりこの技は使用されない。トップロープからの雪崩式でこの技を敢行して金丸義信を下し、GHCジュニアヘビー級王座を獲得した。
人物 [編集]

柔道出身ながら、さして跳びぬけた戦績がないため当時の現場監督でレスリングのエリート出身である長州力からは非常に厳しく扱われ、新弟子時代には唯一高岩だけが「鍛えるためにしごく」のではなく「辞めさせるためにしごく」という目的のもと、過酷な練習を強いられていた。しかしながら高岩は人一倍折れない心とハングリー精神でしごきを乗り越え、のちに長州も彼をジュニアの中心の1人として重用するようになっていった。在籍当時ZERO1-MAXのコーチ的役割も担っており、中でも高岩と同様にジュニアパワーファイターである佐々木義人が彼の影響を受けているといわれる。
若手時代はチャンスに恵まれず、ファイトスタイルに悩む。当時はラリアットを相手の顔面に打ち込んで苦情を受けたこともあった。
競馬の大ファンで、オフの週末は毎週のように競馬施設へ足を運ぶほどである。毎年、週刊プロレスの選手名鑑のライバルには競走馬を必ず上げるほどだが、槍玉に挙げられた競走馬はその年に引退すると言う不思議なジンクスがあり、なんと10年間もこのジンクスが続いている。ライバルにされ、その年で引退した馬はスペシャルウィーク・グラスワンダー・テイエムオペラオー・ファインモーション・ゼンノロブロイ・ディープインパクトなどである。
頭髪が薄いレスラーで、大谷晋二郎と共によく冷やかされている。また、その外見で松中信彦と間違えられることもある。実際野球場で、ファンが高岩と松中2人の顔写真が貼られたプラカードを持って応援しているのが確認されている。
オフには総合格闘技ジムでコーチとして選手の育成をしている。
金本浩二が一時期多用していたコーナーに逆さ貼り付けにして対角コーナーからスライディングキックをする技はある日、金本が道場で高岩に尋ねたところ教えてくれたとのこと。
また、金本曰く、本人はパワー系のプロレスを行うものの実際はワイルド・ペガサス(クリス・ベノワ)を目標としジュニア特有の空中殺法に憧れていると闘魂Vスペシャル内で言っていた。
タイトル歴 [編集]

新日本プロレス
IWGPジュニアヘビー級王座 : 1回(第38代)
IWGPジュニアタッグ王座 : 2回(初代・第4代)
パートナーはどちらも大谷晋二郎
ベスト・オブ・ザ・スーパージュニア優勝 : 1回(2000年)
プロレスリング・ノア
GHCジュニアヘビー級王座 : 2回(第2代・第12代)
ZERO1-MAX
NWA/UPW/ZERO-ONE認定インターナショナルジュニアヘビー級王座 : 1回
4団体認定インターナショナルジュニアヘビー級王座 : 1回
AWA世界ジュニアヘビー級王座 : 1回
天下一Jr.優勝 : 2回(2004年・2008年)
WAR
IJタッグ王座
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【2010/12/31 00:53 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
ターザン後藤
ターザン後藤(ターザンごとう、1963年8月16日 - )は、元大相撲力士、現プロレスラーである。本名は後藤 政二(ごとう まさじ)。静岡県島田市出身。
目次 [非表示]
1 経歴
1.1 大相撲時代
1.2 全日本プロレス時代
1.3 FMW時代
1.4 謎のFMW離脱
1.5 ターザン後藤一派
1.6 FMW復活
2 コーチとしての実績
3 タイトル歴
4 リングネーム
5 得意技
6 脚注
7 外部リンク
経歴 [編集]

大相撲時代 [編集]
中学校を卒業すると九重部屋に入門、後藤(ごとう)の四股名で1979年3月場所に15歳で初土俵を踏む。しかし同年11月場所限りで廃業、最高位は序二段95枚目。島田市出身者では初めての力士だったらしく、当時実家にも地元マスコミの取材が来たという。
全日本プロレス時代 [編集]
大相撲廃業後は全日本プロレスに入門、1981年2月19日に福島県霊山町民体育館(現在の伊達市霊山体育館)の越中詩郎戦でデビューする。1983年にプロレス大賞新人賞を受賞する。トレードマークとなるワンショルダータイツは、デビューからしばらく経ってから身に着け始めた。また、リングネームを本名から現在のものに改めたのは、さらにしばらく後のことである。
1985年に海外遠征し、ベトナム人レスラー『ホー・チー・ウィン』のリングネームで活動した。また1986年にはテネシー地区で佐藤昭雄と日本人タッグを組み、同地区のインターナショナル・タッグの初代王者となっている。当時、大相撲で昭和38年生まれの力士達(北尾・北勝海・寺尾・琴ヶ梅ら)が「花のサンパチ組」と呼ばれて活躍していたことを受け、TBSテレビが「中村敦夫の地球発22時」で、昭和38年生まれの元力士達のその後を追った番組を制作した際、番組の目玉の一人として遠征中の近況が紹介されたことがある。現地で女子プロレスラーのデスピナ・マンタガスと知り合い結婚している。しかし全日本プロレスより帰国命令がなく、そのまま現地に定着。帰国命令が無かった理由は、後藤は現地で結婚して引退しアメリカにそのまま定住した、と全日本から思われていたためとの説があり、ジャイアント馬場がトークショーを行った際、ファンから後藤の近況を聞かれた馬場が、「向こう(アメリカ)で結婚して、プロレスをしていない」旨の発言をし、これが週刊プロレスの記事として取り上げられたことがある。調理師をして生活していた時期がある。
FMW時代 [編集]
遠征中の1989年に大仁田厚から誘われ、全日本プロレスを退団しFMWの旗揚げに参加。団体を興すにあたり、自分を支えてくれる選手が必要と感じた大仁田が、ひょんなことから連絡先を知り誘ったものであった。最初に大仁田から連絡が来た時に、ジャンボ鶴田から電話がかかってきたと勘違いしている。全日本プロレス退団前にはケジメとしてジャイアント馬場にFMWへ移籍する旨を伝え、正式に認められている。当初は、謎のベトナム人レスラー、ボートピープル・ジョーとしてマッチメイクされていたが、リングインすると同時にマスクを取り、「後藤だ!帰ってきたぞー!」と叫んだ。同年12月には、後楽園ホールで大仁田と組み、松永光弘・ジェリー・ブレネマン組を相手に日本初の有刺鉄線デスマッチを戦った。
1990年初頭に開催された総合格闘技オープントーナメント(総合格闘技と銘打っているが、内容はプロレス)では、準決勝で大仁田を破る金星を上げたものの、決勝で元新日本プロレスの栗栖正伸に敗れ、準優勝の成績を残す。同年8月4日、汐留大会にて大仁田と史上初のノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチを行い、この試合がプロレス大賞年間最高試合賞を受賞。爆薬を使った視覚的インパクトの強い試合は週刊プロレス、週刊ゴング等、プロレス誌の表紙をも独占した。
1991年、インディー団体としては破格のビッグマッチである川崎球場大会のメインイベントで再び大仁田とノーロープ有刺鉄線金網電流爆破デスマッチで戦い、3万人を超える大観衆を集めた。このあたりから「鬼神」というニックネームも定着し、地味ながら安定した実力を見せる後藤はFMWファンの強い信頼を受けるようになる。暮れに行われた世界最強総合格闘技タッグリーグ戦には、大仁田と組んで参加。東京ベイNKホールでの決勝戦で、柔道家のグリゴリー・ベリチェフ、コバ・クルタニーゼ組を破り、優勝。世界マーシャルアーツタッグ選手権の初代王者となった。
1992年1月、大阪でビッグ・タイトンを破り、世界マーシャルアーツ選手権を奪取。これが後藤の日本での初のタイトルとなったが、3月には元ボクシング世界ヘビー級チャンピオンのレオン・スピンクスに敗れ、タイトルを失った。
1994年3月、WAR両国国技館大会にて大仁田と組み、天龍源一郎・阿修羅・原組と対戦。後藤のアシストもあり、大仁田が天龍にフォール勝ちするという番狂わせを演じた。この試合で2度目のプロレス大賞年間最高試合賞を受賞。
謎のFMW離脱 [編集]
1995年、大仁田の引退試合の対戦相手に決まっていたが、その直前になり、突然退団を発表する。ミスター雁之助、フライングキッド市原を率いてFMWを離脱する。大仁田との引退試合を放棄し、それをメインイベントとしていた大会一週間前に団体を退団するというあまりの異常事態によりファン、マスコミ、FMWも大混乱に陥る。この際開かれた退団する3人による記者会見では記者からも事情を説明するよう強く問い糾されたが、後藤らは「大仁田引退試合を放棄し、その数日前という直前に退団を決意するだけの『何か(「裏切り行為」とも)』があった」ことだけを語るにとどまり、この時舞台の裏側で何があったのかは関係者がいずれも口を固く閉ざし、今もはっきりした原因は明かされていない。大仁田の引退試合の相手はハヤブサに変更された。
FMW離脱後の後藤らは真FMWを名乗り、IWA・JAPANの後楽園大会に乱入。FMWで自らデビュー戦の相手を務めた中牧昭二らとの抗争に突入する。同年8月、川崎球場においてダン・スバーンのNWA世界ヘビー級王座に挑戦し、好勝負を展開するも敗れる。
この頃、アルティメット・ファイティング(UFC)で日本人格闘家が敗退し続けていたために、自分がUFCに出ると宣言していたが、UFCから「デスマッチ等の危険な試合が多いから」という理由で拒否されるが、実際の拒否理由は不明。このことで、漫画家の花くまゆうさくは紙のプロレスに執筆している自身のコラムで、「初めてアルティメットの呪縛から逃れたレスラー」と、後藤のことを評している。
1996年、第一回メモリアル力道山興行に登場した際には、メジャー団体の象徴とも言える長州力が、インディー団体を批判した一方で、後藤に対しては評価する発言を行う。同年、インディー統一機構を名乗るFFFに冬木軍、折原昌夫らとともに参加するも同団体は旗揚げ戦前に倒産。
1997年には、WARマットを中心に暴れまわり、同団体の武井正智社長がプロレスデビューした6月の後楽園ホール大会でも対戦相手を務めた。7月の両国国技館大会では、天龍のデビュー20周年試合としてメインイベントで一騎打ち。多くのファンは両者の真っ向からの激突に期待したが、後藤は天龍のリングシューズを脱がしにかかるなど反則攻撃に終始。
ターザン後藤一派 [編集]
この数年間に渡って自らが座長を務める真FMWも、R2W、革真浪士団、ターザン後藤一派と衣替えを繰り返した。この頃、冬木弘道の発案でFMWへの出場が計画されたが、所属選手達の猛反対と、後藤本人も拒否し、後藤のFMW再登場は幻となっている。
2001年には全日本プロレスに約16年ぶりに参戦した。2002年、埼玉県春日部市に道場兼プロレス会場の春日部インディーズアリーナを設立。同年10月の全日本プロレス日本武道館大会では、本間朋晃とタッグを結成し、テリー・ファンク、アブドーラ・ザ・ブッチャーと戦う。
2005年には四冠王者(当時)の小島聡までもがターザン後藤一派の清水大会に参戦し、後藤とタッグマッチで対戦。2006年には、春日部からの移転で東京・浅草に浅草インディーズアリーナを再興。この会場は「浅草ファイト倶楽部」という店としても営業し、プロレスを見ながら飲んだり食べたりできる店として、インディーファンを楽しませ、特にちゃんこ鍋を注文すると、自ら調理をするという念の入れ様であったが、現在は浅草のインディーズアリーナ及びファイト倶楽部は閉鎖されている。
自らの団体での活動と並行して、全日本プロレスから分派した新団体キングスロードの旗揚げ戦に参戦するも、後楽園ホールでの旗揚げ戦では怪我のためか、影武者に試合をさせ、自らは場外乱闘に終始した。
FMW復活 [編集]
2009年11月6日、12月24日自らのデビュー30周年興行をFMW再旗揚げ興行としFMWの活動再開を表明した[1]。2010年からターザン後藤一派を母体とした「スーパーFMW」として団体化。
コーチとしての実績 [編集]

全日本在籍時から後輩のコーチを請負うようになり、若手時代の小川良成が教えを受けている。さらにFMWに移ると大仁田から選手育成を任され、新弟子指導を一手に引き受けるようになる。ハヤブサ、ミスター雁之助、田中将斗らが、後藤から基礎を叩き込まれた。
そしてFMWが男女混合団体だったことから女子の指導も行い、教えを受けたシャーク土屋らが他団体に進出した結果、それまで全女流の作法がほとんどだった女子プロレスのリングに、後藤の作法、さらに言うなら後藤の師匠であるジャイアント馬場の作法がもたらされることにもなった。長与千種がこの件に触れて「腕のとり方一つとっても違うので面白い」と語っている。
現在も選手育成に熱心で、自前の若手選手を送り出し続けている。
2008年12月25日のニューハーフプロレス団体「ダイナマイトバンプ」旗揚げにも一役買っている。
タイトル歴 [編集]

WFDA世界マーシャルアーツ
WFDA世界マーシャルアーツタッグ
IWA世界ヘビー(IWA・JAPAN版)
IWA世界タッグ(IWA・JAPAN版)
NWA世界タッグ : 防衛1回(&ミスター雁之助)
フロリダPWFヘビー
レッスルブレインタッグ
CWA世界タッグ
リングネーム [編集]

後藤が名乗ったことがあるリングネーム
後藤政二
ホー・チー・ウィン(アメリカ遠征中に使用したが、大仁田の化身『グレート・ニタ』のタッグパートナーを務める際にも使用したことがある)
ターザン後藤(現在も使用中)
得意技 [編集]

ゴーストバスター
垂直落下式ブレーンバスター。
フェイスバスター
パイルドライバーの要領で持ち上げ、自身の身体を浴びせるように前方に倒れ込んで相手の顔面・胸部をマットに叩きつける技。上記ゴーストバスターと共に、長年フィニッシュとして用いている。
現在この型のフェイスバスターを国内で使用するのは後藤ぐらいのものである。
各種凶器攻撃
【2010/12/31 00:53 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
佐藤耕平
佐藤 耕平(さとう こうへい、1977年9月21日 - )は、日本の男性プロレスラーである。東京都江東区出身。ZERO1所属。駒澤大学高等学校柔道部→大東文化大学中退。大学ではプロレスラー・橋本友彦と同級生。
背中左肩部の虎の刺青が特徴でありトレードマーク(以前はその刺青は虎の輪郭だけを描いたものであったが、2004年頃からちゃんと全体を描いたものになる)。
ファイトスタイルは狙った獲物を徐々に苦しめ、最後にしぶとく狙っていくタイプである。
ニックネームは「若虎」。「FIGHTING TV サムライ」のZERO1-MAX中継の実況担当の塩野潤二は、彼のことを「反逆の鬼武者」と呼んでいる。
リングインのテーマ曲は、Bondの「VIVA」(ビバルディの「四季」の“冬”のアレンジ曲)。
目次 [非表示]
1 来歴
2 得意技
3 タイトル歴
4 その他
来歴 [編集]

1998年、プロレスラーの村上和成、空手・キックの猛者だった藤井毅、スポーツインストラクターでプロ格闘家の岡田孝(現・三州ツバ吉)が千葉県内に設立した格闘技道場に参加。プロ修斗に出場して2戦2勝(1999年7月16日、藤井克久に1R TKO勝利など)の実績をひっさげてZERO-ONEに入団した。
2003年に海外修行を果たし凱旋、かつては横井宏考とチーム名「ROWDY」として共闘。当時、崔領二は長期欠場中で、横井はZERO-ONEにはフリー参戦している状態であったが(後にZERO1-MAXになって正式入団)、2人の技術の向上のためにと敵対していた佐藤と横井がユニットを結成した。現在は主に崔領二をパートナーにトップ選手への挑戦を続けている。
ZERO-ONE入団当時は長身だけが目に付く痩せこけた感じの選手であった。しかし2001年9月に開催された「火祭り」の第1回大会において大谷と決勝戦を行い、敗戦したものの準優勝となった。その後も橋本真也の付き人として世話をする傍らで、橋本とのタッグでザ・プレデター、トム・ハワード、ネーサン・ジョーンズ、マット・ガファリといった大物外人との戦いを経験し、やられながらも頭角を現す。そして「ZERO-ONEを将来背負って立つ男」と将来を嘱望される逸材として注目される。
しかし体の方は依然ヒョロヒョロで体重もギリギリでヘビー級であるという感じで、格闘家ではあるがプロレスラーらしくない体格で凄みが感じられなかった。2004年にスランプに陥ったこともあり、橋本真也に単身アメリカでの無期限の武者修行を命令された。
およそ3か月して帰国した佐藤は、ウエイトアップし体重115kgの体格を引っさげての凱旋となった。そして2004年の第4回火祭りではAブロックで田中将斗と大谷晋二郎を破る金星があり、決勝に出場。大方の予想では圧倒的にBブロック制覇の大森隆男の優位であったが、佐藤耕平のこの一戦のために温存していた必殺技“ポールスター”を決め大森からフォールを奪い、初戴冠を成し遂げた。以後はヤング・MAXと銘打たれた若手軍団の筆頭レスラーとなった。
2005年の暮れからはハッスルにおいて、モンスター軍として出場を重ねた。リングネームは佐藤耕平であるが、キャッチフレーズは共闘する川田利明の「モンスターK」に倣い、「モンスターK’」(ケーダッシュ)である。なお、ZERO1-MAXのメンバーでは唯一のモンスター軍であったが、ハッスル24から大谷晋二郎がモンスター軍に加入した(それまで、大谷はACHICHIというギミックであった)。
2005年10月、新日本プロレスとの対抗戦が勃発し、大谷晋二郎・崔領二・神風とタッグを組み、ZERO1-MAX代表チームとして新日本軍の天山広吉・飯塚高史・吉江豊・山本尚史組との8人タッグマッチを自身初の東京ドームにて実現した。ちなみに、佐藤が普段は敵対する大谷晋二郎とタッグを組むのは異例であり、以前2003年に全日本プロレスとの対抗戦で大谷・田中の炎武連夢の試合で田中が急遽欠場した際に大谷のパートナーとしてタッグを組んだくらいであった。
2006年1月4日、昨年秋から勃発した新日本プロレスとの抗争第2ラウンドで、新日本の中邑真輔とのシングルマッチが組まれ、マスコミ関係者ならずとも“次世代のエース決定戦”と新年早々注目を浴びる。しかし、同日のメインイベントでIWGP王者ブロック・レスナーに挑戦する筈の藤田和之の欠場でその挑戦権が急遽中邑になったため、佐藤対中邑は幻となってしまった。
ZERO1-MAX9月大会では大学時代の柔道部の同胞、橋本友彦とのシングルマッチが実現。共に柔道部を逃げ出したという旧知の仲であり、当時の柔道成績は巨漢に勝る橋本の圧勝であったが、このプロレスとしての試合は、圧倒的な橋本ペースを挽回して佐藤の勝利に終わった。
ZERO1-MAX内においては、大谷晋二郎、田中将斗、大森隆男といった30歳代選手に刃向かう新世代選手の旗頭として、これらの選手を敵に回し奮闘している。かといって最近は、同じZERO1-MAX内の他の新世代選手(特に崔領二)らとタッグを組み共闘するといったことも無く、2007年から参戦したフリーの高山善廣やROWDYとして元のタッグパートナーである横井宏考とタッグを組む場合が多かった。
2006年下半期から2007年3月においては怪我が多く、戦線離脱することがあった。
2007年、無断欠場や会場入りの遅刻といった奇行が目立ち、団体から外れる行動が多くなり、ZERO1-MAXを解雇処分となった。ただし、フリー参戦の形で団体には引き続き帯同した。
2009年3月、再びZERO1へ再入団した。
2010年4月、川田利明を破り、第7代世界ヘビー級王座となった。
得意技 [編集]

ポール・スター
基本はノーザンライトボムだが、相手を抱え上げてから自分の足で相手の足をフックして叩きつけるのが完全形。あまりにも難度が高すぎてめったに見せない。最上位のフィニッシュムーブ。
ジャーマン・スープレックス・ホールド
決め技として最も多用される。相手を一旦クレーンで吊り上げる様に滞空させてから投げつける独特のフォームで、「二段式ジャーマン」とも呼ばれる。
ファルコンアロー
フォールへはいることは少なく、フィニッシュへのつなぎ技としての使用が多い。
ブレーンバスターのクラッチで抱え上げ、頂点に来たところで相手の体を反転させて前方へ背中を叩き付ける技。
三角絞め
ミドルキック
主に走り込んできた相手へのカウンター技として使用し、相手のスピードを利用して放つ。
ニーリフト
同上。カウンター技としての使用が中心。
サッカーボールキック
払い腰
パイルドライバー
崔虎
崔領二との合体技。片方が相手を肩車し、もう片方がスワンダイブ式ミサイルキックを決める。
タイトル歴 [編集]

NWA・ZERO-ONE認定UNヘビー級王座
NWAインターコンチネンタルタッグ
(2回/パートナーは崔領二→高山善廣)
火祭り優勝(1回/2004年)
ZERO1 世界ヘビー級王座
アジアタッグ(第72代 パートナーは横井宏考)
その他 [編集]

ハスキーな声が特徴(ハスキーを通り越し、完全に喉が潰れている)。談話などを聞いても言っていることが非常に分かりづらく、ハッスルにおいては途中で川田利明に「おめー何言ってるのか分かんねんだよ」とマイクを取り上げられることもある。
【2010/12/29 18:21 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
斎藤譲
斎藤 謙(さいとう ゆずる、1987年7月29日 - )は、ZERO1-MAXに所属する日本の男子プロレスラー。愛知県蒲郡市出身。
18歳の時、プロレスラー柴田勝頼に憧れ単身、三重県桑名市の柴田道場へ入門、プロレスデビューを目指し1年間を過ごす。
その後は当初、柴田道場が全面協力していたビッグマウス・ラウドやUWAI STATIONでのデビューを目指していたが、柴田が離脱したため、直後の2007年2月、ZERO1-MAX練習生となる。
道場では高岩竜一、佐藤耕平の指導の下、力をつけ12月4日愛知県豊橋市総合体育館にて、プロテストを兼ねた5分間のエキシビジョンマッチ(対植田直幹戦)を行う。内容がよければその後の12月13日名古屋市中区スポーツセンター大会でのデビューもあったが、当事の社長中村祥之のMixiによれば、「気持ちは前に出ていたが、体がついていっていない」との報告を受けデビューは延期となった。
結局、入門後1年以上経過した2008年3月31日埼玉県所沢大会のでデビューが決定したが大会自体が延期となり、急遽、3月26日北海道函館市民体育館での対高西翔太戦でデビューとなった。
人物 [編集]

柴田勝頼に憧れていて、戦うスタイルも柴田のようなプロレスラーになりたいと語っている。
高西翔太の事を「入門する前から好きでした」と語り、デビュー戦で叩き潰してくれた事を感謝していた。
今後は「蹴って蹴って蹴りまくる喧嘩屋になりたい」との事である。(以上、東京スポーツモバイルのデビュー戦コメントより)
得意技 [編集]

連続エルボー
キック連打
【2010/12/29 18:20 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
崔領二
崔 領二(さい りょうじ、チェ・ヨンイ、최영이、1980年6月3日 - )は、日本の男性プロレスラー。大阪府大阪市出身(三重県伊勢市出身と紹介されることもあるが間違いではない)。在日韓国人3世。ZERO1所属。
長身で、身長と体重のバランスが良く、さらにZERO1きっての色男で人気が高い。その人気に加え実力が急成長し、元週刊ゴング誌所属で現フリーの金澤克彦は「日本のプロレスラーで最も成長しているレスラーである」と評価している。
ファイトスタイルが自分(もしくは自分のチーム・団体)に敵対するものに即座に向かっていく一触即発型で、短気であるが故に頭に血がのぼりやすい性格で俗に言う“トンパチ”である。団体対抗戦の場合に先陣を切って登場するタイプである。(以前は団体対抗戦の時に崔は自軍の旗を持参しリング上で振っていた)とにかく喧嘩っ速さはプロレス界一である。
これらの体型や人格を踏まえ、喧嘩サイボーグまたは浪速の喧嘩貴族、スーパーデンジャラスヒーローと呼ばれている。
総合格闘家RYOは実兄。
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1 来歴
1.1 ケンドー新木場
2 得意技
3 タイトル履歴
4 入場テーマ曲
5 その他
6 関連項目
7 外部リンク
来歴 [編集]

15歳でイギリスのハイスクールに留学。卒業後、オランダでジェラルド・ゴルドーの下で格闘技を習得した。日本に帰国後ZERO-ONEに所属し、2001年9月1日のイゴール・メインダート戦でプロレスデビューを果たした。
しかし2002年から2004年にかけて内臓疾患により長期欠場を余儀なくされ、遠征には帯同するものの練習生という扱いになり辛酸を舐める。そんな試合が出来ない間も出来る範囲でのトレーニングを欠かさず行うが、本来自分のパートナーである佐藤耕平が横井宏考とROWDYを結成するなど、欠場中の崔とこの二人との実力の差は開いてしまう。
2004年に復帰してからは佐藤耕平とのコンビも復活し、大谷晋二郎と田中将斗の炎武連夢をも倒しNWAインターコンチネンタルタッグ まで戴冠する活躍で復活する。復帰までの道のりは、精神的にかなり過酷なものだったが、大谷をはじめ、多くの人に支えられ乗り越えることができた。
また、ハッスルへも常連レスラーとして出場しており、ハッスル軍の一員として「ハッスル崔ボーグ」のニックネームを持っていた。しかし、2005年12月24日後楽園ホール開催のハッスル・ハウス・クリスマススペシャルで坂田亘率いる坂田軍団に入団、その後ハッスル軍残党と合流して新生ハッスル軍のNo.3となった。そのハッスルに於いて、他のレスラーが技(打撃系)を掛ける度にニックネーム(イニシャルに近い)で「C」とか「K」などと場内観客コールの飛び交う中で、ある日のタッグパートナーの石狩太一(現・タイチ)が試合前に「崔さんの場合”崔”って読めないから”ジャン”でいいんじゃないすか」と言われ、暫く「ジャン」という歓声が飛び交った。
その後も若手の旗頭として大活躍をし、新日本プロレスとの抗争においては山本尚史という新しいライバルを見つけるが、シングルマッチでは今のところ無敗である。また2005年と2006年には火祭りにも出場しており、2006年の方は兄貴分の佐藤耕平に勝利をする殊勲も収めた。そしてA・B両グループを通じて崔は唯一トップの勝ち点6で予選リーグを通過(崔はBグループ。Aグループは勝ち点5で4人(大谷晋二郎・田中将斗・村上和成・吉江豊)が横一線で並び、4WAYマッチで田中が勝利し決勝へ進出)。決勝に進み惜しくも準優勝。田中将斗に敗れたものの成長ぶりを証明する試合となった。
2008年12月22日の『あいのり』放送分より、ニックネーム「レスラー」として新メンバーに加わり、2009年3月23日放送の最終回まで出演した(2008年12月17日のZERO1興行後に「俺がこのままじゃ今のZERO1は救えない。だから新たな地で一から自分に足りないものを見つけてきます」と発言し、その後欠場となったが、2009年1月29日にZERO1興行に復帰した)。
2009年3月29日、ZERO1靖国神社大会で世界ヘビー級王座を獲得した。7月1日にベルトは田中に明け渡すものの、同年の火祭りでは決勝でライバルの耕平を下し初優勝を果たした。
ケンドー新木場 [編集]
ケンドー新木場(ケンドー しんきば)は、ZERO1-MAXの新木場大会(CS放送「FIGHTING TV サムライ」の企画「S-ARENA」若手主催興行)に現れる、剣道の胴衣を身にまとった覆面レスラー。正体は学生時代剣道をやっていた崔領二である。竹刀を持っており、異種格闘技戦などでその腕をふるう。
得意技 [編集]

シドマス
リストクラッチ垂直落下式バックドロップ。
メインのフィニッシュムーブ。IからIVまでバリエーションが存在する。イギリスで留学した地名(en:Sidmouth)から名づけた。
那智の滝
直下式ダイビング・フットスタンプ。
スカイ・キック
柴田勝頼のPKとほぼ同じ技。
サイロック
レッグ・ラリアット
赤川鉄橋
崔虎
佐藤耕平との合体技。片方が相手を肩車し、もう片方がスワンダイブ式ミサイルキックを決める。
垂直落下式パイルドライバー
自身が『あいのり』出演時に得意技として公表したリバース・ツームストーン・パイルドライバー風の技。しかし、実際に試合では未だ使われていない。
タイトル履歴 [編集]

NWAインターコンチネンタルタッグ
NWA UNヘビー級王座
ZERO1 世界ヘビー級王座
火祭り優勝(2009年)
入場テーマ曲 [編集]

The Kids Aren't Alright(オフスプリング)
その他 [編集]

イギリス留学時代の1998年10月に『探偵!ナイトスクープ』に依頼者として登場したことがある。依頼内容は「カルタの達人に挑戦したい」。そのためにわざわざ帰国しての挑戦だったが、結果は初戦・再戦(ドラえもんかるた使用)とも敗れた。また、2000年9月に同番組の「超人3番勝負」に挑戦し、電車より速く走る、100人との腕相撲に勝つ、淀川横断を成功させた。
2002年のCS放送FIGHTING TV サムライの週刊ZERO-ONEの番組に於いて、浜松町にある同団体事務所から新宿までを、靖国通りなど(つまり都心を真っ直ぐ)をジョギングで走る崔と、山手線を外回りで半周(山手線には大谷晋二郎が乗車)とどっちが早く到着するかという企画があったが、ジョギングの崔の勝利であった。
ファンサービスがいいことで有名である。
2007年2月、和歌山県那智勝浦町の観光大使になる。得意技の那智の滝(直下式ダイビング・フットスタンプ)に関連している。同7月には、「世界遺産プロレス 熊野・那智伝説 格闘ロマンチック街道の旅」と題し青岸渡寺三重塔前特設リングでプロレス興行を開催した。
2007年3月14日のホワイトデーに、ウェスティンホテル東京に於いて、スカイパーフェクTV!主催の「ひなバトル」が催された(女性客限定の、新日本プロレス、プロレスリング・ノア、DRAGON GATE、ZERO1-MAXの4団体による提供大会)。この大会で特別ゲストであったIKKO(美容家)と、司会進行役である平川健太郎(日本テレビ)と三田佐代子(フリーアナ・古舘プロジェクト所属)の二人がプロレスをリングサイドで観戦しながらトークをする(勿論、その模様を場内に流す)という企画であるが、IKKOはどの選手にも、試合中によく「すごい」「格好いい」「素敵」といった批評をしていたが、数多くのイケメン、チョイ悪オヤジ選手の中においても、IKKOは崔に対し最も「素敵」「私のタイプ」という言葉を発していて一番人気であった。
イギリス留学で培った英語の経験を活かし、外国人レスラーの通訳をすることがある。また、「あいのり」では、その英語を駆使し、メンバーと現地人との意思疎通に大いに貢献していた。
ZERO-ONEと全日本プロレスの抗争中に全日本から発売されたビデオのスーパーで「雀領二」と表記されたことがある。
【2010/12/29 18:19 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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